昭和52年08月28日 特別奉修員
教祖の神様の御信心の神意を貫いて居る者は、この方は人が助かる事さえ出来ればというのですね、自分が助かっていくのじゃない、人が助かる事さえ出来れば、というのが金光教の、いや教祖様の信心の芯を貫いておるのがそれです。ですから例えば皆さんが、一週間に一ぺん、特別奉修をなさる、私の事を祈って下さり。教会全体の事を願うて下さる。最近ではビリグイ教会の事も一緒に合わせて願うておられる。
ですからそれが本当に出来る時に、力を頂くといいますね、ですからあの人の事を、例えば言いますと、人が助かる事さえ出来ればというあの心が信心に入る、それが言わば奉仕の姿になった時に、力が受けられる事が出来ますね、そらもう自分が助かるとか自分に都合の良い事をどんなに一 生懸命願うても、ごかげは頂けますよね。例えば祈念力なら祈念力、お取次ぎを頂く。
御用なら御用と言う事になって、おかげを頂ますけれども、それは力にはならん、たいした力にゃならんと言う事が分かります。ですから結局自分方のそんなら今日から、まちっと大きな事を願おうというた所で中味がないものではいけませんから、中味が充実して来るね、本当に所謂その愛と方針、とじゃないけれども、愛と精神というのがね、本当にこう出来て来る、そこに教会のこと教会。
合楽教会の大発展を御神願が成就致しますようにという願いを立てる。その願いを立てるからには、それだけの修行もせなならんという様なね。それが力になったと言う事です。自分の事を願うておかげを受けて、こりゃ矢張り力になるとは思われませんですね、祈念力が出来とる、信心が詳しくなっても、だから出来るだけその願いの目当ての焦点が大きくなっていく所に。それが充実していく内容、まあだ人の事まではとても手が届かんというのが沢山ありましょうがね。
自分の事で一杯だという。けれども信心がだんだん解ってくると、もうその教祖様の信心の、芯を貫くものはなにか、ひとがこのこと人が助かりさえすれば結構であると。これが芯です、だから私共もやはりそういう。だから私共もだんだんおかげを頂いて来たのも、やはり人が助かる事さえできればという精神というか、そういう信心が段々出来て来る所に、もういやが上にもこう力付いて来るですね。